同性愛が「性的倒錯」のカテゴリーから外れてからまだ30年ほども経っていないということを思い返してみよう。このときは、同性愛が「性的倒錯」でなくなった、という事態そのものが歓迎されていたわけだが、しかし相変わらず「性的倒錯」というカテゴリーは、「正常な」セクシュアリティと「異常な」セクシュアリティとを区別する言葉として機能し、その「性的倒錯」「性的倒錯者」というカテゴリーに投げ込まれた人々は、その人間性の本質からして倒錯した異常者として見なされることになる。この極めて恣意的な「正常」「異常」の区別の操作において、同性愛がふたたび「異常」の側にカテゴライズされてしまう可能性はゼロではない。
記識の外: 良い監視・悪い監視。
とのことだ。しかし、あいにく、そのようなカテゴライズは、実のところ、しばしば公然となされているのではないか。
年始になると初詣などに出かける人達がいる。参拝するときにお金を、たとえば神社などにおとしていくことになるわけだ。これは、それぞれの宗教法人への寄付、ということになる。不思議なのは、そういう寄付がどのように使われていくか、ということについて、ほとんどの人は無関心だ、ということだ。
例えば、全国のほとんどの神社というのは神社本庁の配下にある(昨年、神道界の内部トラブルで離脱したことが話題となった明治神宮のようなケースもあるが、これは例外だろう)。つまり、神社に参拝してお金を使うということは、神社本庁を頂点としたネットワークへを経済的に潤すことになる。で、問題はこのネットワークが何をしているか、だが、まぁ、「憲法改正運動」であったり、「教育基本法改正運動」であったり、そういった右翼的な活動というのを結構含んでいる。政治家との直接の交渉や政治資金の流れは神道政治連盟のような関連団体を使うことで、神社本庁そのものは注意深くその種の活動から切り離されているかもしれないが、マクロに見れば、「神社に参拝」が右翼的な活動の支援になっている、という構造はあるのではないかと思う。
もちろん、自分のお金がそのように使われて全く問題ないと考える人が、そのようにお金を使うことは、全く矛盾がない。しかし、神社本庁がとりくむ政治問題に関心がなかったり、むしろ反対する立場をとっている人達が、参拝してしまうというのはやや迂闊なのではないか...と山本夜羽音さんが神田明神に参拝しているのを知って思った。
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