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監視とカテゴリー化

2005/01/17

Permalink 03:25:50, by Nobuo Sakiyama Email , 14 words   Japanese (JP)
Categories: 検閲, 監視社会

監視とカテゴリー化

金田さん曰く

同性愛が「性的倒錯」のカテゴリーから外れてからまだ30年ほども経っていないということを思い返してみよう。このときは、同性愛が「性的倒錯」でなくなった、という事態そのものが歓迎されていたわけだが、しかし相変わらず「性的倒錯」というカテゴリーは、「正常な」セクシュアリティと「異常な」セクシュアリティとを区別する言葉として機能し、その「性的倒錯」「性的倒錯者」というカテゴリーに投げ込まれた人々は、その人間性の本質からして倒錯した異常者として見なされることになる。この極めて恣意的な「正常」「異常」の区別の操作において、同性愛がふたたび「異常」の側にカテゴライズされてしまう可能性はゼロではない。

記識の外: 良い監視・悪い監視。

とのことだ。しかし、あいにく、そのようなカテゴライズは、実のところ、しばしば公然となされているのではないか。

...

インターネット上のWebコンテンツを、受信者側、あるいは受信者側の一歩手前で、ネットワークの管理者が受信者の意にかかわらず受信を阻止する仕組として存在するものとして、フィルタリングソフトがある。これらの多くは、コンテンツをさまざまなカテゴリでラベル付けするレイティングをソフトを販売しサービスを提供する側が行い、サービスの提供を受ける管理者がブロックしたいカテゴリをあらかじめ指定しておくと、該当するカテゴリに分類されたコンテンツへのアクセスをプロキシサーバなどがブロックしてくれる、という形になっている。

フィルタリングソフト製品の多くは、初期の段階から、「同性愛」というカテゴリをラベル対象として有している(ゲイポルノなどは別カテゴリ)。つまり、これは「同性愛」にかかわるコンテンツを排除する、ということが、そのようなソフトに初期から期待されてきたということだ。より厳密にいえば、米国で最初期にそのようなソフトが導入され始めたころは、「同性愛」は「ポルノ」と区別されずにフィルタ対象とされたところが、同性愛者団体の抗議などの結果として、フィルタをやめるという方向ではなくてカテゴリの創設に至ったという経緯もあったかと記憶している。

フィルタリングソフトの多くは、市場拡大のために企業向けに多くのカテゴリを新設し、データベースを膨らませ続けている。そうなってくると、単にフィルタリングのためのカテゴリが存在するから、といって、それが「有害」「異常」への有徴化といえるかというと、そのように批判するのはなかなか難しい状況かな、という気もする(もっとも、「同性愛」カテゴリの内容に相当するような「異性愛」カテゴリがない以上、排除のための有徴化であるとは言えるのだが、「判断は顧客次第」というベンターの主張を乗り越えて糾弾することは困難だということ)。

しかし、翻ってフィルタリングソフトの「利用形態」に着目することはできるだろう。フィルタリングソフトの利用をある程度前提としたところで、どのように「安全/危険」の線が引かれ、「閲覧させるべきでない」というポリシイングがされているか、だ。

具体的事例のひとつとして、やや古いが財団法人 コンピュータ教育開発センター(CEC) Eスクエア・プロジェクトの「平成12年度実施プロジェクト」のなかの「インターネット教育利用の先進的実践研究」のひとつとして行われた「インターネット小中学校安全教育ガイド CD-ROM作成をみることができる。

これをみていくと、明確に、「危険なコンテンツ」として「セクシャルオリエンテーション」を挙げている。そこでは、

「ヘテロセクシャルで偏執的な性嗜好がない」のが通常であり、それ以外のは「逸脱」とされますから、同性指向や特殊な性嗜好は、同好者以外には公言されるようなものではありませんでした。様々な嗜好は時代をさかのぼって常に存在していましたが、例えば、見つかれば処罰される、社会的に信用を失う、家庭生活が保てなくなる、などの理由により性指向・嗜好とその内容を「発表」し、誰にも手が届くところに「展示」するようなことは考えられない時代が長く続きました。

しかし、今ではインターネットによって同好者か否かに関わらずだれでも「逸脱」とされている情報を閲覧することができます。クリックすれば内容があらわれる仕組みですから、いくら特定の性嗜好に嫌悪感を持つ人々や子どもにふさわしくない内容であるという趣旨の警告文があっても、サイトの責任回避にこそなれ、実際の役にはたちません。

セクシャルオリエンテーション

といった具合に、明確に「同性愛」を異常の側に置き、また、性的指向の暴露が社会的地位の失墜を招くような状況が存在していたことをむしろ肯定していたり、さらに

性指向
社会への働きかけがさかんで、一部の国や地域では法的にも認められつつある性指向はホモセクシャルです。
ホモセクシャルはゲイ(もともと『ほがらか』という意味の形容詞)とも呼ばれます。日本ではゲイは男性ホモセクシャルを指しますが欧米では男女の区別なく使われています。ある統計によれば人口の3-5%はホモセクシャルであり、(別の資料では7%)ほとんどの人々は社会からの抑圧や拒絶反応のために敢えて性指向を隠しているということです。近年になってゲイ・レズビアン団体が各地で発足し、同性愛者のカップルでも夫婦に近い権利や法的な保護を整えるための運動を展開しています。これらのサイトではセクシャルオリエンテーションの自由が主張され啓蒙活動もさかんです。

ヘテロセクシャル以外を是とするかしないかは、全く個人の問題であり、これらのサイト自体に責任はありません。問題は、このような啓蒙情報はネット上に多々あり、性の意味すら理解できない子どもたちにも手が届くということです。

セクシャルオリエンテーション

と、同性愛肯定の情報を明確に危険視する傾向が伺われる。これらの記述について、具体的なサイト事例が続く。サイト事例は、「問題サイト例」という別ページでさらに補充されている。なお、プロジェクトの詳細情報は公募に応募して作業を行ったKids' Space Foundationのサイトにある。

これが、純粋に民間で行われているのであれば、そういう信念の方々はいるので、どうということはないのかもしれないが、 これは、Eスクエア・プロジェクトの一環としてCECと旧IPA(独立行政法人となる前の、「特別認可法人 情報処理振興事業協会」)から資金提供をうけて成果をIPAとCECに帰属させる形で行われたものだ(詳細は公募要領を参照)。つまりは、少なくとも通産省(当時)のお金が使われているということにはなる。 そういう前提において、この問題を考えるべきだろう (その意味において、「東京クイア日記」のぱちぱち氏による批判 (1, 2)は、当事者性のある方のものとしては、あっさりしすぎている気がする)。

また、全く別の話としては、公的機関におけるフィルタリングソフトの具体的な設定の問題がある。フィルタリングソフトは、情報流通を遮断するにあたって、その遮断の判断を公然とした場から、私的な場へと移したことに特徴がある。例えば、公然と同性愛肯定情報排除を行うことが憚られるという判断が働く場合においても、私的な場では同性愛肯定情報排除を安心して行うことができる、ということである。問題は「私的な場」が、どこまで「私的か」だろう。家庭や民間企業などは相当に「私的」だが、微妙な問題をはらむ気もする。が、逆に、公立図書館や公立学校は「私的な場」とはいえまい。しかし、例えば公立学校の場合、そこでどのような判断がとられているか、は外部から知ることは困難だ。一方、公立図書館や公民館などは、自由に出入りできるパブリックスペースであり、そこに置かれた公衆端末の設定、というのは「公的な問題」として自由に調査可能だろう。過去には、日比野真氏が、自身のサイトや他のセクシャルマイノリティー系サイトをキャンパスプラザ京都の1階パソコンコーナーからアクセスしようとしたところ、Websenseによって拒否されたことがあると報告したことがあった。

さて、ここでおしまいにすると、単なるイチャモンという気がするので、「監視」にからんで。フィルタリングソフト、という製品は、単にWeb閲覧を遮断するものではない。遮断する前提として、ネットワーク管理者は「何が閲覧されているか」ということを常に知りうる、という状況がある。そのうえで、この種の製品は、指定したカテゴリについて、単に遮断するに留まらず、どの端末がそのアクセスをしたかをログに残す機能がついている場合が多い。また、アクセスを遮断せずにログを残すこともしばしば可能である。ネットワーク管理のソリューションと組み合わせることで、個人単位でのカテゴリ別のアクセス統計を残し、監視することが可能である。そして、多くの学校では、すでにそのようなフィルタリングソフトを導入している。そう考えると、ことインターネット利用については、金田さんの問題にしているような監視を、子どもの成長過程において実施していく、というストーリーがそのうち浮上しても不思議はないような気がする。企業などの「大人の利用」の場合は、企業はまず従業員に利用規制を行っていることを説明するだろうし、また、従業員側も最初から警戒するだろうし、そもそもが雇用側が性的指向への介入を監視してまで行う動機を少なくとも現時点では持たないだろう。しかし、学校という場では、児童生徒への説明責任という感覚は希薄であろうし、閲覧ログを教師が介入できないプライバシーとみなす状況もないだろうし、 また、性的指向へのパターナリスティックな介入も肯定されやすいだろうから。