このところの子どもの携帯電話・所持にまつわるモラルパニック的な騒動について、規制という意味の問題というのとは別に、そこで語られる、子どもを情報機器とICTを使ったコミュニケーションからなるべく遠ざけたい、という「教育」的議論に、ずっと気持ち悪さを感じていた。ただ、私自身はとうに子どもから遠い年齢であり、といって、子どもがいるわけではなく、そして教育の専門家でもないので、このもやもやさをあんまり深く突っ込まずに放置してきていた。でも、ふと気づいたので書く。少なくとも中長期的には、昨今のモラルパニック的な方向とは逆に「全ての子どもにスマートフォンを持たせよう」ぐらいの勢いでものごとをすすめるのがいいのではないか。
こう思い始めたきっかけは、一ヶ月前ほどにクリステンセン(正確には弟子と、大学学長経験のある公共政策専門家の3人の共著)の新著「教育×破壊的イノベーション」が出たばかりのところをたまたま本屋で見かけて購入、2,3時間で読み切ったあたりから。原著も数ヶ月前に出たばかりらしいけれども、関係論文は、2、3年前から出ていたようだ。クリステンセンということで、モジュール化による破壊的イノベーションを学校教育に適用していく議論で、教師中心の指導システムを個別の生徒中心の学習システムに置き換えていくということが話の中心となる(原著タイトルは "Disrupting Class")。こうした変革の道具立てとして、インターネットにつながったパソコンでの e-Learning、それも少数のプロが作ったコンテンツだけではなく、ユーザー生成コンテンツが重要な位置を占めるような姿が未来として描かれている。そうだこれだ、というのがひとつ。もうひとつ、この本では全く引用されていないのだけれども、こういう学びの変革はOLPCプロジェクトとも共通点が多い。
ここで日本のケータイ騒動に戻る。弊害論全体はともかくとして、その後の「学校への携帯持ち込み禁止」議論は、いったい何を守ろうとしているのだろうか。ケータイの利用それ自体についてではなく、「学校への持ち込み」で問題にされているのは、結局のところ、「教師中心の指導システム」としての学校の秩序維持、という観点じゃなかろうか。それに対しての反論も、家庭との連絡や緊急時対応、GPSによる居場所監視などの「セキュリティ」的なものが中心となり、議論が総じて後ろ向き。かくて、GPSはついているが能動的にネットを使えないようにしたケータイを「子ども向け」として売れ的な、非常に後ろ向きな話が大手を振って歩いている。
あと、思ったんだけどね。従来の「ケータイ」って、製品としてかなり垂直統合されていたわけで、ちょっと機能がついたり変わったりするたびにニューモデル、という感じだったけれども、もはやケータイはこれまでほど短い買い替えサイクルが維持できないという話もあり、それは「機能限定子ども向けケータイ」にしたって変わらない。販売奨励金モデルが終わったというのはそういうことだ。そういう状況で「今のうちの子にはこれで十分」と思ったものが、はたして数年後にミスマッチがないか、というと、厳しいのではないだろうか。子どもの成長は早い。さらに、たいして安くもない低機能ケータイを「セキュリティ」関心で買った親が、子どもにそれとは別のさらなる情報化投資ができるかどうか、というと、社会階層や可処分所得によっては、つらい場合も少なからずあるのではないだろうか。
そこで、スマートフォンだ。スマートフォンもいろいろあるだろうけれども、例えば Windows Mobile携帯電話や Android携帯電話は、かなり明確にハードウェアとソフトウエアがモジュール化により分離している。さらに Windows Mobile の端末メーカーにとってのカスタマイズ化の要素の大きさは広く知られているし、Androidに至ってはオープンソースだから、端末メーカーが許せばサードパーティのカスタマイズができる。そして、多くのスマートフォンはサードパーティのものを含むアプリケーションをインストールでき、出来ることの幅も広い。
こういうスマートフォンに教育向けアプリケーションを載せて教育現場で活用できるようにして、ケータイ上のアテンションのいくらかを「遊び」から「学び」に転換する、というほうが、普及がすすんでいる子どものケータイ保有率を考えれば、よほどポジティブなんじゃないだろうか。OLPCの5つの基本原則には「子供の所有権」とあり、スマートフォンを活用できれば、学校の特別教室の共用パソコンよりも、はるかに効果的かもしれない。
ペアレンタルコントロールという観点では、端末メーカーの方針次第では、複数のバージョンのファームウェアを一種類の端末でサポートすることもできるし、内部のさまざまなモジュールを個別に有効・無効にしたり、あるいは場所や時間を用いたきめ細かいペアレンタル・コントロールも実装可能だろう。こうした実装をサードパーティが行うことができるようになっていれば、その提供者は大企業である必要もなく、地域のニーズを拾い上げやすいかもしれない。子どもの発達段階に応じて出来ることをソフトウェアで変えていくのであれば、端末を短いサイクルで買い換える必要もなく、家庭の財布にもやさしいだろう。
そういえば、上でリンクを貼った楠さんのブログ記事では、任天堂DSをひきつつ次世代(以降)のポータブル・ゲーム機のモバイルプラットフォーム化の可能性をみているのだけれども、ここでの文脈だと、すでにDSを使った e-Learning ソフトというのは結構な数が出ているので、教育コンテンツプロバイダとしてはその方向もうれしいのかもしれない。
兵庫県が18歳未満の携帯電話でのフィルタリングを義務付ける条例骨子案を発表したという報道があった(神戸新聞、朝日新聞、読売新聞)。各紙報道のほか、兵庫県のサイトで青少年愛護条例改正骨子案に係る県民意見提出手続き(パブリックコメント)の実施についてという文書が発表されていて、条例改正概要、条例改正案の目的・背景、条例改正骨子案などがMicrosoft Wordフォーマットで公開されている(条例案はインターネットカフェ規制、出会い喫茶規制、深夜外出制限の強化、乳幼児への条例対象への拡大とセット)。どうやら、昨年度からの検討のようだが、その経過の一部を青少年愛護審議会の議事録として読むことができる。県当局が主導して検討していくのを審議会に諮ってきた模様。
この条例案、なんとも気持ち悪い。青少年ネット規制法では保護者が「青少年有害情報フィルタリングサービスを利用しない旨の申出」をする場合、その理由を問われることはない。しかし、この条例案では、
のみが、フィルタリング解除の「正当な理由」として許される。それ以外の理由で判断しようとすることは、条例の義務違反とされる。その上、その「理由」は携帯電話事業者に 書面で提出しなければならず、その記録は3年間保存される。そして、県の「事業者に対する立入調査」において、この記録は調査対象となる。
親が、どのような理由で子どもに携帯電話をどのように使わせるか、というのは、フィルタリングを含めて、その家庭の自治でありプライバシーに属するはずだ。しかし、兵庫県はそこに土足で上がり込むことを平気でやると宣言している。さらに、青少年愛護審議会の議事録を読むと分かるのだが、この条例は当初、フィルタリングの義務化と違反した保護者への罰則までが検討されていたようだ。フィルタリングが「有害」とも思われない有用な情報をブロックする弊害はそれなりに認識されていて、それでかえってプライバシーに首を突っ込むような条例案になっているようだが、罰則については県当局と審議会の一部の委員はかなり拘っていた様子も伺える。将来についての線としては消えておらず、今後ブラックリストのカスタマイズ化が普及すると、むしろ復活する可能性がありそうな議論になっている。
気持ち悪さにはもうひとつ別の要因があって、ネットとケータイを使う「親」への、県や審議会委員の目線だ。大抵の親はすでに成人で、20代〜30代が中心で10代と40代もそれなりにいるだろうが、そういう世代には、ネットとケータイで当たり前にヘビーにコミュニケーションしている、そういう層が少なからずいるわけだけれども、それこそを矯正したい、という感じが漂っている。これは、条例改正の他の部分についての議論でも伺える。下限を撤廃して従来対象になっていなかった乳幼児を含める、という文脈では、さすがに他の委員から支持されず、審議会の会長からも検討対象外だとされていたが、「青少年条例の年齢の上限を上げたい」という議論がでていた。
(会長) 条例上の青少年の定義を「6歳以上18歳未満の者」から「18歳未満の者」に変更するということについて、ご意見はありますか。
(委員) 国民投票を18歳以上にするという議論もある。それについて、ある大学で調査したところ、18歳は若すぎる、まだ物の判断ができないとその年代に近い学生が答えている。そうなると、犯罪を起こしているという行為自体は大人と寸分違わず起こしていますけれども、精神的にはまだ20歳になっても、子どもじゃないかなと思うんですけれども。これからは、18歳という上限についても議論していかなければならないと思います。
平成20年度青少年愛護審議会(第2回)議事概要 - 兵庫県
まぁ、こういうパターナリスティックな気持ち悪さというのは、なにも兵庫県限定ではなくて、内閣府の青少年育成施策大綱でも、従来からして、青年期といって30歳未満までカバーしてきたところを、今度はさらに「ポスト青年期」といって30代まで政策の対象としてきていて、個別の政策の是非とはまったく別の「枠組」レベルの問題として、どんだけお前らパターナリズム好きなんだ、というほかないのだが。ただ、それでも兵庫県の気持ち悪さは特質に値する。
毎日新聞の社説なんだけどね、主張の是非はさておき。
警察当局は取り締まりを強化しなければならない。これまではインターネットの接続業者に削除を要請したり、海外からの流入はブロッキングという手法で防いできたが、手ぬるいと言わざるを得ない。
社説:児童ポルノ規制 これ以上子どもを泣かせるな - 毎日新聞 2008年12月19日
ブロッキングは自民党提出法案の附則第二条で調査研究が盛り込まれていて、総務省『インターネット上の違法・有害情報への対応に関する検討会』最終取りまとめ(案)でも多くのページ数が割かれているところ(パブコメ募集へのMIAUの意見書でもここが厚くなった)。つまりは現状は検討中であって実施されているものではない。それがすでに導入されているような記述になっている、というのは、単純に事実ではない。毎日新聞は、どこかのパラレルワールドに行ってしまっているのだろうか。それとも、すでに一般への何の断りもなく密かに導入されているというスクープだったりするのだろうか?後者はあまりにひどいので前者説をタイトルとした。
楠さんが私のところを参照して言及したヘイトスピーチ規制の可能性についてなんだけど、少し考えてみたが、やはり、きっかけは人権擁護法案になるのではないかと思う。ただし、人権擁護法案が直接にヘイトスピーチ全般を法規制する、という話ではない。
2003年に廃案になった政府案を参照すると、ヘイトスピーチは「特定の者」へのものと、「不特定多数の者」へのものと大きく二つに分かれている。前者は「人権侵害」の中のひとつで後者は「差別助長行為等」(法案3条2項)。特定の被害者のいないヘイトスピーチに関しては、後者だけを考えればよい。さらに、この中で二つあるうちの2号は3条1項1号の人権侵害を「する意思を広告、掲示その他これらに類する方法で公然と表示する行為」ということで、行為主体がかなり限られる。「業として対価を得て物品、不動産、権利又は役務を提供する者としての立場」において、女人禁制とか外国人お断りとか表示するというのがそれなりに幅広いが、ただ、それは言論として独立に存在するというよりは、普通に考えて行為と一体になっているだろう。そして、3条2項1号は誰でもできる内容だが、「当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を文書の頒布、掲示その他これらに類する方法で公然と摘示する行為」というのは普通に考えるとプライバシー暴露とか、規制対象とするのに無意味な情報(性別とか肌の色とか)とかを除くと、ピンポイントに被差別部落の地名の列挙などをターゲットにしているという話でしかない。そして、第3条での禁止は直罰規定があるものでもない。従って、法規制としては、人権擁護法案それ自体はヨーロッパのヘイトスピーチ規制と比べれば相当に弱い。そして、人権擁護法案が永遠に通らないということはないとして、おそらく、このあたりの条文は動かないだろう。
問題はここから。そもそも、被差別部落の地名の列挙などは法務省人権擁護局がすでに対応し、プロバイダに削除要請を行っている(2007年の概要中に具体的記述あり)。現状は、業界の自主規制で公序良俗に反する情報として扱っているということになる。ホットラインセンターも、取扱い範囲外として人権擁護局に転送する対応となっている。まず、これが「違法情報」に格上げになる。法的根拠があれば、ホットラインセンターのレベルで対処する、というのは現実的に考えられるだろう。また、実際に人権擁護法案が成立して法律になれば、何を「公序良俗に反する」と考えるか、という線が書き換えられるというのも、十分に考えられることだ。「違法・有害情報への対応等に関する契約約款モデル条項」が更新され、ホットラインセンターの運用ガイドラインも更新され、となれば、人権擁護法案の厳密な定義はもはや関係なく規制がすすむということになる。プロバイダがそういう方向に積極的に動くとも思わないが、ホットラインセンター関係者に取扱情報の範囲拡大についての野心を隠さない方がいるのはそれなりに知られていることだし、事件などのきっかけがあれば、警察庁は積極的に「要請」を出して「公序良俗に反する情報」の拡大に勤しむのではないだろうか。
Apeman氏が反応しているので続き。まずもってきちんと読んでほしいいのは、東氏の次の記述(強調は私)。
A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。
歴史認識問題についていくつか - 渦状言論
例に過ぎないのだから、個別の細かい話は捨象されている。そういう例に使うのは専門に扱っている歴史研究者などへの敬意に欠ける、という批判もみているが、「たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても」という話をするための例なのだから、どのような例を持ってきても、論争当事者に対しては「敬意に欠ける」のは仕方がない。その上で、日本語で日本の読者なり日本の学生なりに提示する例として、これは選ばれている、のだろう。ホロコースト否認論も「私的にどれほど許し難」いという反応は引き出せるかもしれないが、現実の問題として、日本の多くの読者なり学生なりにとっては響かないだろう。個別の事情を捨象しているのだから、「南京事件否定論を違法化しようという具体的な政治運動」の具体性も必要ないし、そこは話のポイントでもない。
問題は、情報社会の発展により「言論の自由市場」が淘汰の場としては失効しているということ。東氏が島宇宙という(用語自体は宮台真司に由来。ただし、東氏においては若者文化論ではなくこれが全面化した状態が想定されている)のはそういう状態。それが、東氏における世界認識であり、かつ、ポストモダニズム系リベラルとして擁護する社会の姿でもある。この環境において、Apeman氏が「スルーせずに批判すること」を繰り返しても、社会の中で影響される人はいるかもしれないが、俯瞰してみれば、大勢に影響はない。島宇宙的な共存関係を壊すようなものではない。だから、「スルーせずに批判すること」についていえば、それはご自由にというほかない(し、それはそれでガンガンやればいいんじゃないのかな)が、それのどこが東氏批判になるのか、ということになる。東氏のビジョンを根本的に批判するということであれば、直截には私的に許し難い言論を公的に潰す実力公使となるほかなく、「市民的合意」によって国家権力を呼び出すのであればそれは法規制であるし、合意によらないのであれば、テロリズムとなる。島宇宙化した人々の関心をかつてのように特定少数のものに集まるように取り戻す、というのもないではないが、それはおそらく不可能に近いぐらい困難なことだろうし、現在東氏を批判している面々がそういう方向をめざしているようにもみえない。
表題は、東浩紀氏の「歴史認識問題についていくつか」の件。東工大の授業に関係して起こった騒動については、「呆れうんざり」するだけでいい。大学の授業は、それ自体は、イコール「公共圏」ではない。
多くの論者は「絶対的真実」について、あまりにも甘く見すぎている。「絶対的真実が存在する」とする、というのはどういうことかといえば、それに異を唱えるというのは殺してok、いやむしろ殺すべし、それくらいのことだ。キリスト教における異端審問というのはそういうものであったし、イスラム圏におけるコーランも、やはりそのような重みを持っている場合が少なくない。しかし、そのような「絶対的真実はない」というのが、東氏のいう、「ポストモダニズム系リベラルの理論家」たる主張だ(これは、結論としては「ポストモダニズム系リベラルの理論家」に限定される主張ではないかもしれないが)。
絶対的真実はないということは共有しつつ、東氏の議論はSFと断じ、人道をめぐる人類的合意形成はなくとも「市民社会の信頼をめぐる合意」は可能ではないかとする意見も出ている。しかし、ではそのような合意が「言論・表現」に向かうとき、それは何を意味するのか。SFでもなんでもなく、端的な事実として、現代のヨーロッパでは、ヘイトスピーチへの法規制が進んでいる(ナチズムの記憶のあるドイツに限定された動きではない)。「公共空間の言論」から、特定の形の主張を「平等と反差別」のための「市民的合意」として、国家権力をもって排除するということである。もちろん、ヘイトスピーチというものは、特定の属性を持った人的集団の排除を扇動するものであり(これは、イギリスのCriminal Justice and Immigration Act 2008において、ヘイトクライムについて1986年からの人種に基づく嫌悪、2006年からの宗教に基づく嫌悪に、性的指向に基づく嫌悪が追加されたさいに、同性愛行為などへの批判は含まれず、あくまで同性愛「者」へのヘイトであることが明確にされたことでもわかる)、言論・表現の自由という面では歴史認識問題以上に臨界的なものではあろうが、しかし、特定の主張の「公共的空間」からの排除であることは間違いない。日本における「人権擁護法案」は、実際の条文はこのような水準のものではないにもかかわらず、右派・保守系組織が危機感を表明してきたのは、そのような意味では(私個人の法案への賛否は別として)根拠がないわけではない。
さらに、このような問題はヘイトスピーチだけでは終わらない。前述のCriminal Justice and Immigration Act 2008では、extreme pornographyと呼ばれるものの違法化が行われていて、単純所持を含めて来年1月から禁止される。extreme pornography とは、生命に危険の及ぶ虞のあるプレイを含むポルノ、極度に暴力的なポルノや屍姦、獣姦となっている。現実の殺人事件(窒息プレイについて、合意の上での事故か殺人かが問われた)にからんで加害者が所有していたビデオから悪影響論が盛り上がったことが法制化のきっかけになったこともあり、また、獣姦が含まれていることから分かるようにキリスト教道徳的なものが背景にあるのも間違いないが、しかし、個人的な直感では、フェミニズム由来の反ポルノ運動での「描写自体が暴力である」という主張がこと暴力的な内容ではヘイトスピーチが違法とされている環境では、それなりに受け入れられ易かったのではないか、という気がする。法制化に向けた動きをちゃんと調べてない単なる直感だけれどもね。それから、「違法とする児童ポルノに漫画を含める」といった主張も、「漫画の描写自体が子どもへの性暴力である」という理由が主張する側から再三言われるのだけれども、これもまた、最高裁が断固として憲法修正一条でバーチャル児童ポルノ違憲を出したアメリカ(これでアメリカの最高裁や違憲裁判原告のACLUは先日のリオの会議で日本と並んで非難の対象となっていた)や、日本はいざしらず、ヘイトスピーチ違法のヨーロッパではいかにも受け入れられやすい、というのは普通に連想できる。「平等と反差別」のための「市民的合意」として、特定の言論表現を排除する、ということは、そういうことだ。
「たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」とする東氏の主張を非難しつつ、「もちろん言論の自由は前提である」と述べるような人たちは、ひょっとして、「許さない」という言葉は、「我々は(われわれわぁ)、○○の反動的主張を(はんどうできしゅちょうおぅ)、許すことができない(ゆるすことができなぁい)」とでも集会で宣言し街頭でデモすることが「許さない」という言葉の意味だと考えているんじゃないかとちょっと思ったが、さすがにそんなこともないだろうから、正直言って、何を言いたいのか不明だ。
あと、東氏がメタレベルで議論することを上から目線過ぎと嫌悪するむきもあるが、そもそも問題の科目は「ポストモダンと情報社会」だ。情報社会を論ずるということは必然的にコミュニケーションの形式をめぐって論ずるということになり、コミュニケーションの内容は主要な関心ではない。それは内容議論の上にあるものではなく、単に「全体性」が失われたなかでパラレルに存在するひとつの領域だというぐらいに考えておいたほうが健康だと思う。
追記: 場は既に与えられてるのに今更何言ってんだ、ということらしいが、現時点で場が与えられているということと将来も場が与えられているということは同等ではない。「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」という人たちは、すなわちそういう言動を違法化して検挙せよ、と主張するのだろうか?そうでなければ、それは「場を与える」状態を続けることだ。言論の自由市場で特定の主張が周縁化して実質的に無視できるようになることと、「市民的合意」により国家権力を呼び出して排除することは異なることだということにも注意。もうひとつ付け加えれば、たとえば「歴史学」といった特定の領域で特定の主張を領域構成員の自治として排除することも、「公共的空間からの排除」ではない。その場合、排除された主張が別のクラスターを構成することはある。そのようなクラスターの存在をも許さず地球上から権力的に葬るということが「公共的空間からの排除」だ。
静岡県立大学教授の小島茂氏のブログにテレビに専門家として出演する非認定・DM博士とDM教授というエントリがあり、そこに、おやっと思う名前があった。小島氏としては断定的な評価は行っていないが、全国webカウンセリング協議会理事長の安川雅史氏の名前が出ていた。
全国webカウンセリング協議会といえば、「学校裏サイト」問題にからんで急速に有名になった団体だ。会長に多湖輝氏を頂いているが、実質的には安川氏を中心とした団体といえるだろう。安川氏は、単にテレビに出ているというにとどまらず、先の通常国会では青少年問題に関する特別委員会で参考人を務め、文部科学省ではネット安全安心全国推進会議 委員を今年の8月の第3回会合から務め、10月に始まった「教育の情報化に関する手引」作成検討会 構成員でもある。
その安川氏の経歴についての問題だ。5年前の著書で、「ホノルル大学認定・応用心理カウンセラー」を名乗っているが、ホノルル大学というのは普通にディプロマミルとして知られていて、安川氏の経歴からすると、これはおそらく北海道応用心理学教室で心理学を学んだということだろう。現在でも、北海道応用心理学教室サイトの「生徒から一言」というページには2001年時点でのホノルル大学についての記述があり、Way Back Machineで探れば「ホノルル大学札幌キャンパスについて」というページが出てくる。その後、「ホノルル大学日本事務局」は閉鎖され、北海道応用心理学教室サイトでもホノルル大学の学位授与というのはなくなっているようだ。そして、現在の安川氏のプロフィールには「ホノルル大学」の文字はない。
ここからが本題。安川氏は、現在は「心理学博士」を名乗っている。ただ、「心理学名誉博士」と表記される場合もあり、大学名もない。そして、安川氏の名義での国内の大学の博士論文は存在していない。ここまでを確認した上で、トップページに安川氏のプロフィールを載せている全国webカウンセリング協議会事務局に問い合わせてみたところ、早速、回答を頂いた。以下、前後の挨拶を除いた部分。
お問合せいただきまして、ありがとうございます。安川の博士号についてですが、社会的貢献に送られる海外からの名誉博士号(名誉称号)になります。その他については個人情報になりますので、情報提供はできません。ご了承ください。
「名誉博士号」について「個人情報」というのはどこかがらみで見たような表現なのだが、それは置いておくとして、「名誉」博士号がどこの大学からのものかという部分だけが「個人情報」というのは、かなり奇妙な話だな、とだけ、とりあえず述べておく。個人の公式サイトにも問い合わせてみるか…、と思ったのだが、残念なことにページのフッタをみると「全国webカウンセリング協議会」とあり、結局同じところになってしまうようだ。
なお、心理学関係は少なくとも日本においては国家資格が存在するものではなく複数の民間団体資格が並立していることは知っているし、安川氏や全国webカウンセリング協議会が注目を浴びているのは安川氏のプロフィールに「心理学博士」と書いてあるからではなく、例えば「学校裏サイトリンク集」が注目を集めるなど、一定の実績のもとであることは否定するつもりはない。ただ、公的なところに出てくる「心理学博士」が、じつは「名誉博士」でその大学名は出せません、というのはどんなもんなんだろうね、という疑問を持っている。
タイトルはやや煽りだけれども、アングラサイトではなくてメジャーサイトにブロッキングが適用されたことで、ぐっと話をしやすくなった。日本語だとCNET日本語版に掲載されているWikipediaがイギリスの児童ポルノブロッキングで大ニュースになった件。英語情報は当のWikipediaに集積され、ニュース記事へのリンクも提供されている。
問題は、英語版Wikipediaで長いキャリアを誇るジャーマンメタルバンドであるスコーピオンズのアルバム、Virgin Killer(邦題「狂熱の蠍団 ヴァージン・キラー」)の記事に、オリジナルのアルバムジャケット写真が掲載されていたことから起きた。このジャケット写真は股を開いたポーズの少女ヌードを大きくフィーチャーしたもので、1976年の発表当時から物議をかもしていくつかの国では写真がメンバー集合写真に差し替えられている(日本ではオリジナルのもの)。現在では、新品のCDとして入手できるのは、すべて差し替え版のジャケット。Wikipedia記事では、差し替え問題の説明のために フェアユースとして両方のジャケット写真を掲載している(日本語版ではフェアユースを採用していないので掲載されていない)。
直近の状況としては、これがイギリスのInternet Watch Foundation(IWF)に通報され、ブロック対象になった。イギリスの刑法上の児童ポルノ(indecent photograph of children)の解釈基準では一番レベルの低いところに Erotic Posing というものがあり、これに該当するという判断が行われたと思われる(児童ヌードでも該当しないものはある)。一方、アメリカの連邦法、およびWikipedia財団のあるフロリダ州法では、これは児童ポルノではない。アメリカの児童ポルノの定義では、単体ヌードが該当する場合は限定されていて、ヴァージン・キラーのジャケット写真では、性器そのものは上に被さったガラスのヒビの描写で覆い隠されていて、性器を露骨に描写しているわけでもなく、全身ポーズとしては股を開いているが、性的ななにかを少女にさせているわけでもない。こういうものは法的には児童ポルノとはされない。このジャケット写真に関しては、アメリカ国内の有名な右派ニュースメディアが、児童ポルノだとして警察に対応を要求したことがあった(このメディアは他のWikipediaの記事での性的事項の記述や成人の性器写真などについても批判的である)が、結局のところ警察が動くことはなく終わっている。なお、実児童の写真という前提のもとでは定義が幅広い日本の児童買春・児童ポルノ禁止法には抵触するような気がするので、このブログ記事から問題のエントリへのダイレクトなリンクは行っていない。
いくつか問題があって、アルバムジャケット写真そのものは、「店頭で販売する」という文脈では単なる違法・合法の線引き以上の抑制が働いているわけで、まず売っていないのだが、昔のLPレコードの中古品の売買は普通に行われていて、Wikipediaを運営するWikimedia財団の声明でも、Amazonでイギリスから普通に買えるぞと言及されている。あと、非常にメジャーなところで扱われていたので、Wikipediaに限らず問題の写真を掲載している Webサイトがあるなか、「通報ベース」とはいえ非常に恣意的に見えた、ということはあるだろう。さらに、そもそも問題なのは「写真だけ」のはずが、ここでは当のアルバムを説明している純粋なテキストまでもが児童ポルノブロッキングに適用されたということだろう。イギリスの児童ポルノブロッキングは、URL単位で行うので「画像だけ」というブロッキングが容易だということになっていた。しかし、現実は画像をインライン表示するテキストページもブロッキングの対象になっていることが白日のもとに晒された。「児童ポルノへの対応」のなかでは、商業的児童ポルノサイトなどへの対応で、あきらかに画像のみではなく幅広いブロッキングを要するケースもあるだろう。しかし、この件はそういう問題ではない。「児童ポルノ」ゆえにブラックリストの内容を公表できないという前提のもと、いったい彼らは何をやっているのか、ということだ。ちなみに、イギリスでは最近Criminal Justice and Immigration Act 2008という法律が成立して順次施行の最中で、すでに児童ポルノについては「トレースやその他の派生物」も対象とする拡大が行われていて、来年1月には、extreme pornography として、屍姦ポルノや過激な暴力ポルノ、獣姦ポルノなど(実際のものかどうかは問われない)が単純所持を含めて禁止され、これらもブロッキング対象になるとみられている。
制度的な部分以外では、技術的な問題点もWikipediaでは指摘されていて、ブロッキングに利用されている透過プロキシの速度が十分でないことや、そもそもプロキシとしてサーバー側からは見えてしまう代物なので イギリスの多くのユーザーのアクセスするIPアドレスが数個に集約されてしまっているといったことが挙げられている。後者は「荒らし対策」の側面では最悪で、多くの非ログインユーザーが他のユーザーとIPアドレスで区別がつかないためにWikipediaの編集ができない状態にあるという(HTTPヘッダでクライアントのIPアドレスを通知しているプロバイダは個別救済されているというがそれから外れているプロバイダもあるという)。
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