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今般の東浩紀の言説をめぐる騒動で断固として東氏を私は支持する

2008/12/14

Permalink 22:51:26, by Nobuo Sakiyama Email , 18 words   Japanese (JP)
Categories: 情報社会, 言論・表現の自由

今般の東浩紀の言説をめぐる騒動で断固として東氏を私は支持する

表題は、東浩紀氏の「歴史認識問題についていくつか」の件。東工大の授業に関係して起こった騒動については、「呆れうんざり」するだけでいい。大学の授業は、それ自体は、イコール「公共圏」ではない。

多くの論者は「絶対的真実」について、あまりにも甘く見すぎている。「絶対的真実が存在する」とする、というのはどういうことかといえば、それに異を唱えるというのは殺してok、いやむしろ殺すべし、それくらいのことだ。キリスト教における異端審問というのはそういうものであったし、イスラム圏におけるコーランも、やはりそのような重みを持っている場合が少なくない。しかし、そのような「絶対的真実はない」というのが、東氏のいう、「ポストモダニズム系リベラルの理論家」たる主張だ(これは、結論としては「ポストモダニズム系リベラルの理論家」に限定される主張ではないかもしれないが)。

絶対的真実はないということは共有しつつ、東氏の議論はSFと断じ、人道をめぐる人類的合意形成はなくとも「市民社会の信頼をめぐる合意」は可能ではないかとする意見も出ている。しかし、ではそのような合意が「言論・表現」に向かうとき、それは何を意味するのか。SFでもなんでもなく、端的な事実として、現代のヨーロッパでは、ヘイトスピーチへの法規制が進んでいる(ナチズムの記憶のあるドイツに限定された動きではない)。「公共空間の言論」から、特定の形の主張を「平等と反差別」のための「市民的合意」として、国家権力をもって排除するということである。もちろん、ヘイトスピーチというものは、特定の属性を持った人的集団の排除を扇動するものであり(これは、イギリスのCriminal Justice and Immigration Act 2008において、ヘイトクライムについて1986年からの人種に基づく嫌悪、2006年からの宗教に基づく嫌悪に、性的指向に基づく嫌悪が追加されたさいに、同性愛行為などへの批判は含まれず、あくまで同性愛「者」へのヘイトであることが明確にされたことでもわかる)、言論・表現の自由という面では歴史認識問題以上に臨界的なものではあろうが、しかし、特定の主張の「公共的空間」からの排除であることは間違いない。日本における「人権擁護法案」は、実際の条文はこのような水準のものではないにもかかわらず、右派・保守系組織が危機感を表明してきたのは、そのような意味では(私個人の法案への賛否は別として)根拠がないわけではない。

さらに、このような問題はヘイトスピーチだけでは終わらない。前述のCriminal Justice and Immigration Act 2008では、extreme pornographyと呼ばれるものの違法化が行われていて、単純所持を含めて来年1月から禁止される。extreme pornography とは、生命に危険の及ぶ虞のあるプレイを含むポルノ、極度に暴力的なポルノや屍姦、獣姦となっている。現実の殺人事件(窒息プレイについて、合意の上での事故か殺人かが問われた)にからんで加害者が所有していたビデオから悪影響論が盛り上がったことが法制化のきっかけになったこともあり、また、獣姦が含まれていることから分かるようにキリスト教道徳的なものが背景にあるのも間違いないが、しかし、個人的な直感では、フェミニズム由来の反ポルノ運動での「描写自体が暴力である」という主張がこと暴力的な内容ではヘイトスピーチが違法とされている環境では、それなりに受け入れられ易かったのではないか、という気がする。法制化に向けた動きをちゃんと調べてない単なる直感だけれどもね。それから、「違法とする児童ポルノに漫画を含める」といった主張も、「漫画の描写自体が子どもへの性暴力である」という理由が主張する側から再三言われるのだけれども、これもまた、最高裁が断固として憲法修正一条でバーチャル児童ポルノ違憲を出したアメリカ(これでアメリカの最高裁や違憲裁判原告のACLUは先日のリオの会議で日本と並んで非難の対象となっていた)や、日本はいざしらず、ヘイトスピーチ違法のヨーロッパではいかにも受け入れられやすい、というのは普通に連想できる。「平等と反差別」のための「市民的合意」として、特定の言論表現を排除する、ということは、そういうことだ。

「たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである」とする東氏の主張を非難しつつ、「もちろん言論の自由は前提である」と述べるような人たちは、ひょっとして、「許さない」という言葉は、「我々は(われわれわぁ)、○○の反動的主張を(はんどうできしゅちょうおぅ)、許すことができない(ゆるすことができなぁい)」とでも集会で宣言し街頭でデモすることが「許さない」という言葉の意味だと考えているんじゃないかとちょっと思ったが、さすがにそんなこともないだろうから、正直言って、何を言いたいのか不明だ。

あと、東氏がメタレベルで議論することを上から目線過ぎと嫌悪するむきもあるが、そもそも問題の科目は「ポストモダンと情報社会」だ。情報社会を論ずるということは必然的にコミュニケーションの形式をめぐって論ずるということになり、コミュニケーションの内容は主要な関心ではない。それは内容議論の上にあるものではなく、単に「全体性」が失われたなかでパラレルに存在するひとつの領域だというぐらいに考えておいたほうが健康だと思う。

追記: 場は既に与えられてるのに今更何言ってんだ、ということらしいが、現時点で場が与えられているということと将来も場が与えられているということは同等ではない。「南京大虐殺がなかったと断言する主張が存在する権利がない」という人たちは、すなわちそういう言動を違法化して検挙せよ、と主張するのだろうか?そうでなければ、それは「場を与える」状態を続けることだ。言論の自由市場で特定の主張が周縁化して実質的に無視できるようになることと、「市民的合意」により国家権力を呼び出して排除することは異なることだということにも注意。もうひとつ付け加えれば、たとえば「歴史学」といった特定の領域で特定の主張を領域構成員の自治として排除することも、「公共的空間からの排除」ではない。その場合、排除された主張が別のクラスターを構成することはある。そのようなクラスターの存在をも許さず地球上から権力的に葬るということが「公共的空間からの排除」だ。